MY STORYNo,13

RESEARCHER

研究者

Kaori
Taguchi

田口 かおり
人間・環境学研究科 准教授

COLUMN

イタリアで磨いた
絵画修復の技術。
修復士の視点で
芸術作品の
核を見抜く

15歳のころ、旅行先のイタリアではじめて目にしたミラノの大聖堂と、フィレンツェでめぐり会ったフラ・アンジェリコの壁画が道を決めました。大聖堂のあまりの大きさと複雑さ、壁面の人物たちがまとう衣服の色鮮やかさに衝撃を受けたのです。「どうしてこんなに美しいままに事物がのこるのだろう」。文化財の保存に関わる仕事を探すなかで、絵画修復士という職業にたどりつきました。
そうと決まれば、まずはイタリアに行かなければと、イタリア留学ができる近隣の大学を探して進学しました。1回生と3回生のときに留学して、修復工房を訪ね歩き、情報を集めてまわったのです。

正解のない絵画修復に挑む

日本の大学を卒業して、フィレンツェ国際芸術大学に入学。デッサンや美術史、材料技法学や修復理論など、必要な技術と知識を学びました。苦労したのは化学。作品の物質的な構造や性質を知り、絵画表面の洗浄に使う薬剤の調合などに必要な知識を身につける授業です。修復士になるためには必須の知識ですが、化学はほぼ未履修。おまけにイタリアの試験は口頭形式が多いので、丸暗記では乗り切れない。苦手意識をふり払って、独学で高校の教科書から学び直しました。
資格取得後は、絵画修復士としてフィレンツェ市内の修復工房で働く機会を得ました。貴重な経験を重ねるいっぽうで、壁となったのが外国人労働者として働くさいに必要な各種許可書や給与をめぐる問題です。アルバイトをしながら修復に携わるなかで、経済的・身体的にも疲れがたまり、絵画と向きあう時間が削られてゆきました。
私が胸に刻んでいたのは、ある美術史家が述べた「修復は批評である」という言葉。たとえば、作品によっては制作当時の状態をめざして復元的に修復するよりも、経年劣化こそが重要な意味をもつことも。作品にとってなにが重要かを考えて、ときには依頼主の意向を汲み取りながら最善の方法を模索します。修復とは、異なる作品をひとつひとつ理解し、ふさわしい道を探すこと。多忙な日々のなかで、ここが疎かになることに葛藤を感じはじめていました。
ここでいちど立ち止まり、各作品や保存修復という学問そのものと時間をかけて向きあいたい。美術史家であり、修復の射程についても検討をつづけておられた岡田温司先生と出会い、京都大学に飛び込みました。だれもがそれぞれの研究テーマを熱心に追究する人間・環境学研究科の空気に助けられて、私もぞんぶんに関心を追求できました。

京都大学総合博物館の企画展で展示する作品を点検中

保存・修復の実技と思想の結び目に

いまは、研究や修復実践のかたわら、コンサベーター(Exhibition Conservator)として展覧会での仕事にも携わっています。コンサベーターの仕事は、展覧会のために国内外から借用した作品を点検して、部分的に修復をしたり展示環境を再検討したりなど、所蔵者とも話しあいながら返却までの状態管理をする、というもの。現場にはもどれない覚悟での進学でしたが、直接に作品に触れるとやはり大きな喜びを感じます。
京都大学総合博物館で企画展を開く機会もありました。京都で活躍した造形作家、井田照一の作品《Tantra》との出会いがきっかけです。自身の爪や、その日の食事などを画材につかい、病に冒された日々を記録した、いわば日記のような作品群ですが、絵具だけで描かれた作品とは構造や耐久性が異なるだけでなく、独特の臭気がある。視覚だけではなく嗅覚も呼びこむような作品について、どう展示し後世にのこすのか、私のなかに新たな課題が芽生えました。保存修復の分野でおこなう調査を通じて発見した作品の姿や情報を展覧会などで届ける活動は、これからもつづけていきたいです。
私がそうだったように、現代の人たちは日々の生活や仕事が忙しすぎて、焦りゆえに、ぼんやりする時間を恐れてしまうことがあるように思います。私はいったん仕事から離れて、作品を無心で眺める時間を増やした京都で、多くの新しいひらめきと出会いました。なにもしない時間をもつこと、流れに身をまかせること、そしてオープンな心で次の展開を待つことが、ときとして人生に大きな贈りものをもたらしてくれると信じています。

イタリアでの授業中

思い出深い作品は、ポーラ美術館所蔵のゴッホ作《草むら》。作品の裏に布や紙を貼り付けて補強する「裏打ち」がされておらず、裏面には絵具が点々とついている。絵具が乾く前にほかの絵画の上に重ねられたと推測できる。「作品の『裏』は、当時の作品の保存環境や情報を伝える貴重な資料。これが鑑賞できるよう、展覧会では透明なガラスケースの中に作品が展示されました」。

フィンセント・ファン・ゴッホ《草むら》(1889)油彩/カンヴァス、45.1 x 48.8 cm、ポーラ美術館所蔵

Recommend高校生のみなさんに手に取ってほしい作品

『修復の鑑』 アレッサンドロ・コンティ 著、岡田温司ほか 訳(ありな書房)

西洋の保存修復の歴史と展開の様相を、豊富な修復例を手がかりに読み解く一冊。「作者の意図」や「オリジナリティ」をめぐる問題が、美学、社会学、政治学、哲学などの他領域と綿密に交差する過程が鮮やかに示されています。科学的な実証主義への過度な信頼に警告を発しながら、既存の修復方法につねに批判的なまなざしをもって対峙する作者の態度には、背筋がのびるものがあります。