浅利美鈴(環境科学センター・助教)
心の中のライバル
「研究者」という職業は、大学院に進むまで考えたことのない選択肢であった。そもそも「大学」の印象は「暗くて窮屈」なところ・・・早く社会に出てバリバリ働きたい!という気持ちで3回生までを過ごしていた。そのイメージが変わったのは、3回生になり、専門科目の講義が本格的になり、また4回生になって、研究室に配属されるようになった頃からだろうか。自分の興味のある分野で、国際的に活躍される先生方から刺激を受けるようになった。私が専門とする環境工学は、学問分野としてはまだ若い。その頃は、その分野のパイオニアというべき先生方も多く、研究の原点やポリシー、苦労話などに感銘を受けることも少なくなかった。また、同時に、4回生になったときに、「京大ゴミ部」という環境サークルをクラスメイトで立ち上げた私は、ようやくキャンパスライフらしきものを送るようになった。
さて、4回生になって配属先に選んだのは、ごみの研究室(当時、高月紘教授、酒井伸一助教授)であったが、これも運命的な出会いと言える。それは、得難い恩師と、「ごみ」というユニークな研究テーマとの出会いである。そもそも、環境問題の解決を志して選んだ学科(工学部地球工学科)であったが、まだ環境問題への社会的関心がそれほど高くなかったため、まずは意識啓発からと、マスメディアへの道を考えていた。そんな私にとって、研究で目の当たりにする環境・ごみ問題は、TVですぐに正確に伝えられるほどシンプルなものばかりでなく、問題の奥深さを知った。まだまだ学ぶべきことは多いと。大学院への進学を決めた。
大学院では、4回生のときに立ち上げた京大ゴミ部の取組にも力を入れた。特に啓発活動と子供への環境教育などを、仲間たちと企画・運営した。学内外の様々な人との関わりも増え、やりがいも感じていたが、同時に「これだけ頑張っているのに、世の中なかなか変わらない・・・」と無力感を感じることもあった。そのような中、進路の選択に迫られる。以前から考えていたマスコミ就職・・・ただ、このまま就職して、私は世の中を動かせるような報道ができるだろうか?それよりも、もう少し研究を続けて、自信を持って情報発信できるようになった方が良いのではないか?そんなことをかなり真剣に考えて、内定を頂いていた放送局を断り、恩師に頼み、博士課程進学の道を選んだ。それ以降、「マスコミに入り、頑張っていたであろう私」が私の頭の中のライバルになる。
博士課程は、今から思うと、研究に全力投球できる非常に貴重な時間であった。京大ゴミ部の延長線上で、いくつか活動も続けながら、研究に没頭した。博士課程進学の際にある先輩から教わった言葉がある。「博士号は、足の裏の米粒だ。取れないと気になるけど、取っても食えない。」その通りで、博士号取得後の進路も悩んだ。国際機関で働くことなども考えたが、結局、恩師に拾われる形で、そのまま大学に残ることとなり、今に至っている。
今はどうか?博士課程を経ると、どうしても社会人になるのが遅くなるため、まだまだ駆け出しの気分が抜けない。今も常に、自分の職業については悩んでいる。本当に自分は「研究者」と言えるのだろうか?また適性はあるのだろうか?と。研究については、恩師たちや同僚、仲間の研究成果に刺激を受けつつ、自分にしかできないことを模索している最中といったところか。まだまだ修行中だ。また、大学の研究者は、研究だけでなく、教育や社会活動(行政の会議等への参加)、それらに付随する手続きや業務と、やらなければならないことが山積し、自己管理能力が求められる。しかし、周りを見ていても、オーバーフローしている人が少なくなく、それでもめげないこと、ここぞというときには迷惑をかけないようにやりきることが大切なようだ。
さて、改めて研究者という職業について考えると、少なくとも現在の環境については、他に今の私の状況を許容できる場は考えられない。環境問題に関する活動を続け、度々国内外のフィールドに駆け付ける。また、自らの意見や想いを述べ、理想に向かってチャレンジを続けられる。これほど恵まれた環境は他にはないと思っている。心の中のライバル、他の職業について頑張っていたであろう自分に負けないように、努力を続けたい。