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研究者になる

山肩洋子(情報学研究科・准教授)

これまでを振り返って

 私が入学したころの京都大学工学部情報学科は、103人中女性が3人。男子学生100人に対し女子学生が3人しかいなかったらさぞモテモテでしょう?とよく言われたが、特にそういうことはなく、しかし排斥されることもなく、同級生たちには男女ともとても仲良かった。部活が忙しく勉強はかなりいい加減だったが、「画像処理論」の授業はとても面白く、特に画像認識に興味を持ち、4回生で担当教授の研究室に所属した。しかし画像認識は考えていたよりもずっと難しく、少し深く掘り下げると人間の心理や認知、さらには哲学的な問題にぶつかる。問題の大きさに戸惑っている間に、院試。その成績が悪く、大学院では他研究室に配属されることになった。当時、その研究室は、教授が退官直後で不在のため不人気だったが、世界的に知られる音声認識エンジンを開発しており、優秀な先生や先輩たちが集まっていたのは幸運だった。配属当初は不本意だったが、ここで研究したことで、画像認識と音声認識の両方を組み合わせた研究ができるようになり、その後の研究にとって大変なプラスになった。

 博士後期課程に進み、3回生の終わりごろ、同じく情報学研究科の博士課程を修了していた一つ上の彼と結婚した。彼はその1年前から東京で働いていたが、私は博士号を取得する見込みが立っておらず、東京と京都での別居婚だった。ひと月に一度は私が週末東京に行き、ひと月に一度彼が週末京都に来る生活。博士号取得の要件である論文はなかなか通らず本当につらかったが、なんとか一年半で無理やり博士号をとり、晴れて東京で一緒に住むことになった。

 東京での仕事を探す際に、教授に「どうしても東京に住みたい」とお願いし、研究員の職を紹介していただいた。博士号をとるまでに疲弊していたのもあり、とにかく夫と一緒に暮らしたいの一念だったので、仕事を選ぶ気はなかったが、上司から与えられた研究課題は立体音響システムの開発であり、さすがに範疇外と初めは戸惑った。しかしやれば何とかなるもので、うまい課題を見つけるのは勘がないと難しいが、課題が決まればそこへの取り組み方は多少分野が違っても同じだと感じた。素晴らしい成果が出たわけではなかったが、いくらかの貢献はできたと思う。

 夫と一緒に暮らし始めたことだし、私ももう30歳だし、そろそろ子供を持ちたいと考えるようになった。健康には自信があったし、すぐにできると思っていたのに、予想に反してなかなかできない。いろいろ調べているうちに、原因が見つからないのにずっと授からないこともあること、年齢が上がるにつれて妊娠の可能性が下がっていくことなど、不安材料が次々見つかってしまう。子供がいない人生を想像したことがなかったから、ひどく動転した。それまで何事も根性で何とかしてきたのに、こと子供を授かることに関しては、「そんなに思いつめたら逆にできない」なんて言われてしまう。時間が過ぎるにつれてどんどん子供を持てる可能性が下がるような気がして、とても怖かった。若いころは業績を積んで、子供はそれからと考えていた自分をとても後悔した。幸い33歳で一人目の子供を授かったが、なかなか子供ができなかったあの頃のことを思い出すと、今も胸が締め付けられる。

 一人目の子の妊娠中に、夫が名古屋大学に異動することになった。私はまだ任期が残っていたし、子供がもうすぐ生まれる。そんな時に名古屋で新しい仕事を見つけるなんて全く非現実的である。夫が名古屋大学にうつった後も、1年間は東京に残り、平日は一人で子供を育てる覚悟をした。

 そんな折、京大の教員の公募が出ていることを知った。京都ならば名古屋に近いし、京都にある夫の実家のサポートも受けられる。飛びついて、幸運にも採用された。この異動にあたっては、前職場の方々にも、京大の方々にも、本当に助けていただいた。普通はこの時期に異動など考えられないだろう。本当に感謝している。

 京大に移って早2年。その間に、もう一人子供が生まれた。子育ては本当に大変で、何があっても18時には保育園に子供を迎えに行かなくてはいけない。原稿執筆やプログラミングの途中で帰宅するのは、本当に後ろ髪ひかれる思いだが、今はそういう時期と納得している。限られた時間の中で、研究・教育と子育てを両立できるよう、これからもがんばっていきたいと思う。

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