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研究者になる

伊藤正子(アジア・アフリカ地域研究研究科・准教授)

研究は誰のためのものか

 この欄は、研究者志望の若い女性にロールモデルを示しメッセージを発信するのが目的とのことである。私は研究職ではない仕事をしばらくしてから退職して大学院に入った口であり、既婚であるが子供もおらず子育ての苦労もしていない。今のところ親の介護の大変さも知らない。しかし、試行錯誤のやり直し例があってもよかろうと勝手に解釈し、執筆依頼を引き受けた。

 専門はベトナム現代史である。ベトナムがまだ国際的に孤立していた1980年代半ば、私は大学に入学し、後に院生時代の指導教官になるF先生の「東南アジア史」を選択必修でたまたま受講した。一方、故郷の広島を離れて、カトリックのシスターたちが経営する東京の女子寮で暮らしていたが、そこにベトナム難民でシスターたちの世話になっていたKさんがおり、彼女の受験勉強のため家庭教師を引き受けた。そのうち「東南アジア史」の講義は現代ベトナムに進み、Kさんが自分の目の前に座っている背景を初めて理解した。机の上の勉強と現代という時代がオーバーラップし、大国アメリカに勝利したベトナムという国に強く惹かれた。しかし、進学した東洋史学科では「大学院に進学するなら、テーマは1945年以前のことにするように」と言われ、文化大革命中の中越関係について卒論を書くつもりだった私は、就職を目指すことにした。

 もともとアジアに関する報道がしたかったのでこの選択に迷いはなく、新聞社とテレビ局を受け続けた。均等法2年目であったが、実態は全く「均等」ではなく、「男女差別」を初めて体験し、悔しい気持ちを何度も味わったが、どうにか新聞社に就職した。しかし好きなことはとことん頑張ることができるが、興味がないと熱心にできない性格は新聞記者には向かなかった。新聞記者はオールラウンダーでないといけない。さらに会社の留学制度もなくなり、アジアの報道をするという夢も叶いそうにないのが見えてきていた。そこで3年弱で会社をやめ、アジアに関わることをしたいと考えて大学院に入り直した。

 修論を書き、90年代半ばにようやくベトナムに留学した。当時ベトナムではドイモイ(刷新)政策は始まっていたが、私が研究対象としていた少数民族地域で調査をした外国人はまだいなかった。それがかなり困難であることを全く自覚していなかった私は、ベトナム語のレベルも不十分なうちから公安の許可をとるべく奮闘した。怖いもの知らずが幸いし、短期ながら山間部住み込み調査もできた。博論はこの調査をもとに、少数派として国民国家の下にありながら、多数派に同化せず、しかも必ずしも紛争や分離運動へと向かわない人々の生き方を検討した。

 新聞社退職後大学院入試準備に1年費やし、大学も1浪だったので、院の入学時点で同級生は最大5歳下だった。さらにオーストラリアに1年、ベトナムに2年留学し、35歳まで院生だった。ベトナム留学の奨学金も、学振特別研究員も初めて応募したのが応募可能年齢最後の年であり、私大から京大に移った時の公募要領には「採用時40歳以下が望ましい」とあったが既に41歳で、赴任後「一歳オーバーだったけどね」と言われた。つまりどれも「ぎりぎりセーフ」の綱渡り状態で、運が相当よかったと思う。

 以上のように、ロールモデルにはなりえないので、メッセージの発信だけで許していただこう。ベトナム反戦世代ではない私は、日本国内では平凡な一市民として過ごしてきたが、ベトナムでのフィールド調査の過程で、研究対象をベトナム国家が外国人につついて欲しくない「少数民族」にしたために、「国家」を相手にせざるを得ない場面に遭遇し、「国家権力」について色々と考えさせられることになった。その結果今思うことは「国家のためにする学問は危険である」ということ、国家に「オールタナティブ」を提示できてこそ研究者であるということだ。もちろん自国に対しても同様である。地域研究では、最近「地元に貢献する」とか「地元に役に立つ研究を」などのスローガンを掲げるのがはやりだが、「地元」をどのレベルに設定するかによって、容易に御用研究に成り下がってしまう危険性を常に肝に銘じておきたい。

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