藤井紀子(原子炉実験所・教授)
運、鈍、根?
私は現在、老化した蛋白質中に生じるD-アミノ酸の研究を行っている。私の場合、本テーマの「研究者になる!」という主題とはかけ離れており、最初から、「研究者になる」などいう意思は全くなかった。70年安保のあおりを受けて、大学時代は大した勉強をしなかったので、もう少しだけ勉強したいという気楽な気持ちで修士課程に進学した。修士課程では蛋白質の溶液物性研究を行い、これが楽しく、東京医科歯科大学大学院の博士課程へと進学した。
しかし、博士課程では状況が一変。皮膚の糖蛋白質の研究で朝から晩まで実験したが3年間、何も結果が出なかった。ようやく4年目に目的蛋白質の単離精製に成功したところで厄介な病気となり入院、長期療養を強いられた。8ヶ月後、何とか研究室に復帰、残っていた実験を完成させ、論文を執筆することができるようになった。
ちょうどその頃、筑波大学化学系の原田馨教授(生命の起源と進化の研究の権威)の研究室で公募していた準研究員に応募、ひとまず3年間の期限付きポストを得た。当時、研究室では放電実験、光学異性体分析、隕石中の有機物の分析、不斉合成等の多様な実験を行っていた。原田教授は「人のやらないことをやれ、意外なことを発見したときこそがチャンス」というのが口癖であった。私は老化蛋白質中のD-アミノ酸を見つけるという無謀なテーマに着手した。生命体は進化の過程でL-アミノ酸という片手構造世界を獲得した。それならば、「進化の過程で獲得した片手構造世界は老化の過程で壊されてD-アミノ酸が徐々に増加しているかも知れない」と考えたからである。同様の考えでアメリカの化石学者が、すでに老人の眼にD-アスパラギン酸(D-Asp)を見いだしていたが、眼のどの蛋白質のどの部位にD-Asp残基が生じているのかは不明であった。
そこで、この問題を解決すべく研究を開始した。筑波大学で、3年間の準研究員、2年間の研究生、その後、さらに5年間の任期付き助手のポストを経て10年目で眼の水晶体のα-クリスタリン(Cry)中にD-Aspが生じていることを突き止めた。しかし、α-Cry中のどの部位のAsp残基がD-体化しているのか?を究明する段階にきて、筑波大学との契約が切れた。
万事休すと思ったが、幸いなことに武田薬品工業(株)に3年間の契約社員として採用され、この研究を継続することができた。先端的な機器、豊富な研究費、周囲の優秀な研究員との討論など、恵まれた環境下で仕事は飛躍的に進み、ヒトα-CryのサブユニットであるαA-、αB-Cry中のD-Asp残基の部位を特定できた。特にαA-Cryの2カ所のAsp残基はD-体化率が非常に大きく、単純なラセミ化反応ではない反転反応であることがわかった。このときの身が震えるような興奮は今でも忘れられない。しかし、武田薬品との契約はここで終了。
次の就職先のあてもなく、いよいよ、これで終わりかとあきらめかけたとき、人生最大級の幸運が舞い込んだ。科学技術振興事業団(JST)の「さきがけ研究21」の「場と反応」領域の研究者に3年間採用されたのである。JSTは何の後ろ盾もない無名研究者の「蛋白質中でのAsp残基の反転機構を解明する」という提案を採択してくれたのである。十分な研究費と支援、年に2回の刺激的な報告会が研究を進める上で大いに役立った。そして3年後には蛋白質中でのAsp残基の反転機構を解明できた。
「さきがけ研究21」終了後も路頭に迷いそうであったが、これも運良く京都大学原子炉実験所の助教授に採用され、その後、教授となり現在はスタッフや多くの学生、共同研究者とともにD-アミノ酸研究を行っている。この研究は多くの人々の支援と幸運に恵まれて途切れることなく続けることができた。
現在は、白内障、アルツハイマー病のようなフォールデイング異常を伴う加齢性疾患はD-Aspの生成がきっかけで蛋白質が異常凝集化し、発症したものと考えて研究を行っている。2004年にはD-アミノ酸研究会を立ち上げ、3年前には国際会議も開催し、本分野は大いなる注目を集めるようになった。生化学の中でD-アミノ酸が研究分野として認められるようになり、20年前と比べると隔世の感がある。学位取得後正規ポストを得るまでの16年間は、数年ごとの任期付ポストを複数回繰り返し危うい塀の上を歩いているような研究人生であったが、研究の面白さがそれらのネガテイブな面を凌駕した。
私生活では博士課程時代に結婚、筑波大時代に長男、武田薬品時代に次男を出産。その間に海外も含めて夫の単身赴任が数回あった。当時外資系の企業戦士だった夫は国内外を問わず始終飛び回っており、私は幼い子供たちと孤軍奮闘し、親の介護も人並みに体験した。「買える時間」は買い、ストレスを溜めないようにした。両立に悩む日々も多かったが、子供の笑顔に癒され、家族に支えられた。
若い女性には一時、大変であっても「仕事か、家庭か」でなく、「仕事も、家庭も」取って欲しいと思う。「運、鈍、根」が仕事をしていく上で必須の3条件と言われるが、研究者にもこの言葉が当てはまる。人と違った生き方でも気にしない鈍感さで、あきらめずに根気よく研究を続ける、そうすれば人生で、一回か、二回くらいは「運」をつかめると信じて…..。