岩崎奈緒子(総合博物館・准教授)
「大化け」を誓う
京都の街には美しい場所が数多くありますが、ユリカモメが飛び交う冬の鴨川は、私の特別な場所です。
私が京都大学に入学したのは、高校を卒業して7年後のことでした。早く社会に出たくて短大を選び、20歳で会社勤めをはじめたものの、何かが違う。OL生活は楽しかったのですが、何か大きな忘れ物をしたような物足りなさが消えません。3年たってもそれは変わらず、丸4年勤めて会社を辞めることにしました。
1年間の予備校生活を経て、大学にもぐり込みはしましたが、現実はきびしい。いい年をして親に援助を求めるのもはばかられ、持ち合わせの貯金も底をつきかけた頃に遭遇したのが、ユリカモメでした。来年はもう見られないかも…。
その後、日本育英会と民間の奨学金とをいただけることになり、一度はあきらめたユリカモメを、次の冬、再び見つけたときのうれしさは格別でした。ユリカモメを目にしているのは本当の自分なのか?うれしいのに、そのうれしさが自分のものとして感じられない。不思議な感覚でした。
このように書くと、研究者への道をまっしぐらに進んだように思われるかもしれませんが、大学を続けたいという熱意は、日本史の研究者になりたい、という強い動機に支えられたものではありませんでした。日本史を専攻に選んだのは、もともと民俗学に興味があり、その前提として日本史を学ぼうと考えたからでした。卒論も、歴史学とも民俗学ともいえない、どっちつかずの内容でした。
日本史に対するこうした中途半端な態度を改め、文献資料に傾斜するようになったきっかけは修士論文です。史料を一語一語読み解く中で、それまで無数の点として存在していたものが、ある日突然、線でつながり、一つの形になってあらわれる瞬間を経験し、息苦しいような興奮をおぼえました。日本史の研究を続けたい、そのためにはどうしたらいいのか。修士論文を書き上げた頃、やっと真剣に考えるようになりました。
2度目の学生生活は、最初からOD生活のようなものでしたから、経済的な苦労は大して気になりません。そんなことよりも、ちゃらんぽらんに過ごした6年間を取り戻せるかということの方が大問題でした。恩師の「どうぞ化けてください」という言葉をたよりに、がむしゃらに史料を読みはじめました。これは、修士課程や博士課程に進学する学生・院生を叱咤激励するために、追いコンの場などで、先生方が必ずおっしゃる決まり文句です。提出された卒論・修論はお粗末だが、精進すれば、きっといい研究ができますよ。せっぱ詰まった状態の中、未来に向かって一筋の光を与えられたように感じたものでした。
博士課程に入ってから学位論文を提出するまでの4年間は、研究室では先輩や友人に恵まれ、学会の活動では、大学・時代・専門をこえて、さまざまな研究者の方たちから多くを学びました。今振り返っても、とても充実した幸せな時間でした。学術振興会の研究員の期間が終わったあと、浪人した時期もありましたが、研究さえ続けられればいいや、と修論直後の気負いはすっかり消えていました。
何事にもスタートの遅い私が、研究の職を得ることができたのは、幸運の一言につきます。それはひとえに、長い目で研究の進み行きを見守る歴史学という学問のふところの深さのおかげだったと思います。院生の姿を見ていると、今は、迷ったり足踏みしたりするのを許してくれない時代に変わってしまったかのようです。でもだからといって、夢や希望を捨ててしまうのは、もったいない気がします。
子どもを保育園に預けていると、さまざまな仕事をしているお母さんに出合います。幼い子をかかえて、夜中まで研究に励む医学系の研究者の姿を見るにつけ、道を切り開くのは誰でもない、その人自身なのだという思いを強くします。
あのとき以来、冬になると、必ず一度は鴨川を歩きます。絶望と夢のような喜びとを思い出し、次の1年を重ねてきました。いつの頃からか、ユリカモメに「大化け」を誓うことも加わりました。さまざまな時代、さまざまな領域の古文書を保存している博物館では、幅広い知識が要求され、研究者としての未熟さを痛感する毎日です。「大化け」できた=真の研究者になれた、と実感できるには、まだしばらくかかりそうです。