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神吉紀世子(工学研究科・准教授)

工学部の女子学生が増え始めた頃

私が京都大学工学部建築学科に入学したのは1985年で、私を含め7名の女子が入学した。当時「工学部は女子学生の極めて少ない学部」というイメージが一般的であったと思うが、そのなかでは建築学科は女子学生が比較的多い(学年あたり0~1名ではなく5~6名いる)学科であった。「合格できて入学してみたら、女子は自分1人ということもあるかもしれないな」と考えた瞬間もあったが、実際の所余り気にかけていなかった。同じ高校出身の女子学生の友人は、建築学科よりも女子学生がはるかに少ないと予想される京都大学工学部のとある学科をめざして勉強していた。工学をめざす女子受験生は、既に、受験生の間ではそれほど珍しがられる存在ではなかったように記憶している。京都大学の建築学科においては、我々の1年上の学年の女子学生は6名、さらにその1年上では5名、と、年毎に1人ずつ女子が増えつつあった。ちなみに、我々より1年若い学年では一気に10名に増えている。

現在に較べれば、はるかに人数の少なかった工学部女子学生に特有の関心事は、大学生活上の諸事よりも、「就職・進路」にあったかもしれない。入学当時、「工学部女子の会」という学科横断的な会合があった。他学科の学生や、建築学科の上級生にもこのときに顔見知りの知人が出来た覚えがあるが、その際の話題として4年生がどのような就職活動をしつつあるか話して下さったことが印象に残っている。また、建築学科には女性の卒業・修了者による同窓会組織があり隔年で同窓会が開催されているが、我々が入学直後の1985年にも同窓会が開催された。著名な大学教授である大先輩も来られる同窓会に、一番若い1年生にも開催通知がきた。先輩方がどのような仕事をしておられるのかに興味があって出席したことをよく覚えている。1985年6月公布の「男女雇用機会均等法」が話題となり、先輩方から「就職活動は頑張れ」と激励していただいたこともよく覚えている。その後、我々の1~3年上にあたる学年の先輩の中から、「○○社・女性総合職第一号」として就職されるケースをよく聞くようになった。

一方、1986年頃から顕著になっていった「バブル経済期」の中で、建築系学生の就職環境は急速に「売り手市場」になっていき、自分たちが4年生あるいは修士2年生になった頃は、1~3年上の先輩方よりも、就職先のバラエティはかなり拡大していたと思う。ただ、就職後の待遇には、例えば、女性むけの社員寮がない等の不安定なケースもあったようで、知人の不安や相談の聞き役になったこともあった。

研究室配属の際、私は、都市計画を専門とする研究室に所属することになり、修士課程1年めの5月早々、岡山県津山市という人口約9万人(当時)の、旧城下町の都市で「HOPE計画」策定のためのWGに参加することになった。「HOPE計画」とは、『地域の持つ景観、自然、伝統、文化、産業などの特性を生かしながら、将来に継承し得る質の高い居住空間整備のための計画を作成し、良好な地域社会の形成を目指すもので、地域の固有の環境を具備した住まいづくりの計画』(国土交通省HPより)というもので、津山市では、市民公募委員30名と市職員30名による研究会をつくり、その会主催の調査・ディスカッションによって計画を策定するという方法をとっていた。多数の市民公募委員が実働し、1ヶ月に5~6回という高頻度で研究会内のミニ会議が行われ、当時としては大胆で、意欲的な取り組みであった。私は調査実施と結果分析を担当する役割の大学院生として参加していたが、それにとどまらず、研究会運営の手伝いやミニ会議への直接参加もさせてもらえるようになった。こうして、生まれて初めて携わる実際の都市計画の仕事として、たいへん印象深い事例に出会ってしまったのである。当時は、上述のように「バブル経済期」で、全国で自然環境を切り崩すリゾート開発や歴史ある町並みの中に現れる中高層建物開発などの急増が問題になっていた。研究会でも、そうした情勢のなかで、どのように旧城下町の魅力ある町を継承しつつ住環境を改善するか、という点が重要テーマの1つであり、都市計画制度をどう使うか、さらには、市民の非営利活動で実現できることは何か、と実践的な検討がなされた。その後本当に実現していったアイデアも多く生まれた。こうした中で、修士課程の2年間だけでこの取り組みから外れることが惜しくなり、都市計画の研究者になるべく博士後期課程への進学を考えるようになった。「バブル経済期」にあって、いわゆる開発ではなく、町並みや自然地の「保全」に「仕事」として携わるには「研究者」は一つの有力なみちであった。津山市では、その後10年余りにわたってHOPE計画が展開することになり、私も長く駆け出し時代の修行をさせてもらったのである。

その後も、各地で町並み保全や住環境の計画に携わり、様々なアイデアを得る機会を戴いてきた。年々携わる事例数が増えて忙しくなってしまうのが少々悩ましいが、思わず「はまる」、チャレンジングな現場に出会い、そこに携わる経験は、修士課程時代とかわらずいつでもこの上なく楽しいものである。

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