高橋 淑子(理学研究科・教授)
研究者になる 〜ロールパン?〜
私は1988年に理学博士の学位(京都大学)を取得して、すぐに日本を飛び出した。フランスに3年間、アメリカ3年間と渡り歩き、6年ぶりに日本に帰国した。日本を出る前は、「同じ能力だったら男を採用するぞ」と面と向かって言われるような社会だった。“こんな男社会なんかまっぴらごめんだ、もう日本なんかに戻るものか!”と日本を後にした。事実、フランスにいた3年間は、一度も帰国していない(その一番の理由は貧乏だったからであるが)。
ところが、帰国後6年ぶりにみる日本は、まるで手のひらを返したように変わっていた(少なくとも表面上は)。「女を採用しまーす!女、女、女を発掘しよう!」という、以前では信じられないようなかけ声があちこちから聞こえてきた。なにか気色悪いなと思ったが、その理由は後にわかることになる。そのころから、「ロールモデル」という言葉を耳にするようになった。しかし当時の私はこういう言葉をきいたことがなかったので、「なんだ、このへんてこなカタカナは?きっと『ロールパン』を焼くときに使う鋳型みたいなものだろう」と思っていた(他にもやたらとカタカナ言葉が増えてきたのもその頃である)。
私の専門分野は発生生物学である。1つの受精卵から、どのような仕組みで脳や心臓、そして手足が出来上がるのかを理解する学問である。発生生物学は統合生物学であり、DNA や遺伝子のレベルから細胞や臓器の働きまでを視野に入れて、形作りの謎を解き明かす。有名なiPS細胞も発生生物学を基礎にして花が咲いた成功例の1 つである。発生中の胚(人間でいえば胎児)の中でせっせと“仕事”をしている細胞をみていると、わくわくドキドキの連続である。
私は高校の時の先生のおかげで、生物学が大好きになった。当時実家から5 分のところにあった広島大学理学部生物学科に入ったが、どうも期待とちがった。体育会のワンダーフォーゲル部だったので、授業はサボり倒して山ばかりいっていた。そうこうするうちに、当時の京都大学教授の岡田節人(おかだときんど)先生が書かれた「試験管の中の生命」や「細胞の社会」を読んで、すっかり動物発生の魅力にとりつかれ、岡田研究室の門をたたいた。
生まれて初めての下宿生活。私は究極の自由を獲得した。岡田研のドアを開けると、そこから一気に世界につながる感覚を覚えた。大学院ではES 細胞(iPS 細胞のもとになった細胞)を使った細胞分化の研究を進め、5 年間が楽しく過ぎていった。しかし当時は、男でも就職は困難を極める時代である。ましてや女だと絶望的だった。そういうとき、フランスのニコル・ルドワラン先生が第2回京都賞受賞のために京都に来られた。岡田節人先生の友人であったこともあり、私は彼女と話をする機会を得た。そのとき彼女から「私のところにポスドクに来ませんか?」と尋ねられた。大感激して「はい、是非行きたいです」と答えるのに5秒もかからなかった。今のようにWeb もemail も無い時代である。しかし、人生の選択をえいっ!と決めて、あとは腹をくくって死にもの狂いで走り抜くという道も悪くない。
大学院時代、女は私1人という状況であったのに対し、ルドワラン先生の研究所では7割ぐらいが女性だった。加えて“ラテン文化の洗礼”も浴びて、まるで違う惑星に来たような気分だった。3年間の滞在のうち、前半では遺伝子のクローニングが難航してミゼラブルな毎日を送ったが、後半ではロケット噴射のごとく一気に研究を進めた。前半期データに苦しんでいた時には私を罵倒し続けていたルドワラン先生も、後半期では私を認めてくれたのか、夢一杯のディスカッションをしてくれた。そして私は、生物学の「本当のすばらしさ」を学ぶことが出来た。
冒頭に書いた“気色悪さ”とはなんだったのか。うわべだけのかけ声の裏に潜む「暗い影」を感じたように思う。その影は、その後の社会に新たなゆがみを生み、さらに悪いことに、それに批判的な言論も抑圧されつつある。その成れの果てがあのSTAP 細胞事件だとすると、私が感じていた気色悪さとは、20年後のゆがんだ社会の予言であったのかもしれない。といっても800年以上も続いた日本の男社会を瞬時に変える特効薬などあるはずもない。大切なことは、社会のゆがみを受け入れながらも、それに対する批判的精神を堅持することであろう。少なくとも、私にとって「母」のような存在であるルドワラン先生を、ロールモデルなどというカタカナで表したくはない。彼女は私にとって、永遠の「あこがれ」なのである。