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研究者になる

延與佳子(基礎物理学研究所・准教授)

研究を続ける

 京都大学理学部出身で専門は原子核理論。東京の研究所に就職後、茨城県に転勤し、4年ほど前に縁があって京都に戻ってきた。

 「研究者」というと、一生の仕事として“研究”を選んだ人を指すような気がするが、そういう意味では自分がいつ「研究者」になったのかあまり自覚していない。ずっと研究を続けるのか(研究が続けられるのか)が明確なわけでなく、日々の生活の中でどうにか研究を続けることができたという印象である。気が付くと大学院に進学してからの20年研究をしていたことになり、結果として「研究者」みたいなものになっていた。そういう意味で、今回いただいた「研究者になる!」というお題に対しては、私が研究を続けるきっかけなどをお話するのが適当であろう。

 大学時代は京都大学理学部で物理を専攻した。学部全体300人中で女子は10人、物理に進んだのは2,3人だったと思う。大学院に入ってからは、研究室の先輩に10年前女性が一人いたとかいう程度である。他の研究室の先輩や後輩まで見渡せば女性の大学院生が見つかるが、身近には女性の院生はいなかった。これだけ少ないと自分で女性を意識することはあまりなかったから、もちろん、勉学や研究においても女性だから損だとか得だとかいうことを感じずに過ごしていた。大学院に進学したのは、大学であまり勉強しなかったし、もう少し勉強して専門のことを知りたいという軟弱な理由だったような気がする。そんな理由だから、とりあえず修士課程までやってみて、それからは後で考えようと思っていた。バブル絶頂期の売り手市場で就職に困らない時代だったのも、進学に不安がなかった理由だと思う。

 ところで、子供の頃からぼんやり考えていた自分の人生には「お嫁さんになる」という人並みの夢があった。いつか人生のパートナーが現れて自分は主婦になり幸せな結婚生活を送るという考えは当時珍しくはない。前述の「女性を意識することが少ない」とはビジネスの世界においてであって、自分のプライベートでは幸せな人生を想像していたのである。大学院に入った頃も、いつか自分は“研究”より“結婚”を選ぶのだろうと思っていた。ところが、修士のときに専門の研究に嵌ってしまった。まるで面白いゲームに夢中になるように病みつきになり、生活の中で“研究”のウェイトが大きくなった。これが、研究を続ける最初のきっかけとなるが、ここで「幸せな結婚生活」と「研究を続ける」の選択が両立できるのかは一つの問題である。

 その頃、結婚・出産という人生の転機が訪れる。隣の研究室の助手であった配偶者は当初「君は研究を続けたらいい。育児は自分がする」と言っていたので、上記の選択が両立できると思っていたら世の中そんな甘い話はない。出産後、彼の意見は①「家事・育児は収入の反比例で負担すべき」、②「10年間ポスドクを続けて芽が出なかったら研究を止めて専業主婦になること」に変わっていた。さらに、私の場合、結婚生活は幸せでなかったので、②の選択は人生の終わりであった。つまり、私に残された選択肢は「研究を続ける」以外なく、そのために何としても成果をあげて研究職に就かなくてはならないという差し迫った状況に追い込まれた。これが研究を続ける二つめのきっかけである。自分の人生がかかっているから、それまでぼんやり研究をしていたのとは必死度がまるで違う。幸い、博士卒後1年で東京の研究所に就職し、子供二人を連れて別居生活を始めることができた。

 その後、子供が小さいうちは毎日ぎりぎりの生活が続いたが、ふりかえればあっという間に一番上の子が15歳になった。今まで研究を続けることができてよかったという思いと周りの方々への感謝の気持ちがわいてくる。研究で頑張る上では、特に職場でのメンタルな支えの意義は大きい。原子核という研究分野では、女性の活躍を応援するような雰囲気を感じることが多い。サポートといっても、積極的に励ますことから、暖かく見守るなど、スタンスは様々であるが、自分の頑張りを応援してくれる人が何処かにいるというのは何よりも励みになる。私の研究人生はまだ20年。研究者としてこれから学ぶことも多いと思うが「甘えすぎず、頑張りすぎず」自然体で息の長い研究者になりたいと思っている。

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