吉川左紀子( こころの未来研究センター長 )
研究が人生観をつくる
心理学の勉強がしたいと思い始めたのはいつ頃だっただろうか。学生紛争も終わりかけた1970年代前半に京大文学部に入学し、教養部で興味本位にいろいろな授業をとっていたのだが、心理学や精神医学の講義にとりわけ熱心に出ている自分に気づいたのは2回生のとき。しかし、当時文学部で開講されていた知覚心理学・学習心理学などの実証系の心理学にあまり関心がもてず、教育学部で臨床心理学を勉強しようと決心して3回生の4月に転部した。集中講義に、「有名人」の先生が来るとわくわくして講義にでかけて行ったり、高価な哲学の本を買って、ちゃんと読みもせずに本棚に並べてうれしくなる、といったミーハーな(?)学部時代だった。大学院に進むときも、研究者になろうという意識はあまりなくて、ただ「大学で研究すること」にあこがれていたのだと思う。その後、いろいろ考えた末に、結局、実証系の心理学である認知心理学を選択したのだが、「研究者になる!」という高い志をもってというよりは、「今やっている研究テーマをもう少し続けたい」「飽きたら別のことをやってみよう」といった意識だった。
研究の世界にもそのときどきの流行があって、当時の認知心理学では相当マイナーな、「顔の認知」というテーマを選んだ私は、学会に行っても同じテーマで研究している人にはほとんど会わない、という時期が長かった。最近では、顔や表情に関わる研究は、認知、感情、社会、生理など心理学の多くの分野で取り上げられる「ホットな領域」のひとつになっており、おもしろい研究論文も次々に発表されるので、追いかけるのが大変なくらいである。「あの頃、諦めなくて良かったな」としみじみ思う。なので、心理学を専攻する若い人たちが「研究テーマの選択に悩んでいる」という話しを聞くと、「人はどうであれ、自分がやっていて楽しいこと、自分にとってこれが大事だと思えることを選びなさい」と言っている。そして、一度選んだら、自分なりの結論が出るまでは脇見をしないことが大切だ。こういう選択が可能になるには、それを許す「まわりのおおらかな環境」と、「失敗してもめげない心」という前提があってのことだが、幸い京都大学は、おおらかさにかけては伝統のある大学だから、あとは自分次第である。
私の今の関心事は、人が他者のこころを知り、他者に自分のこころを伝えて、共感し合う(あるいは誤解し合う)こころのしくみである。心理学の教科書的に言えば、「対人認知・対人相互作用」という領域だ。さらに、人と人との相互作用によって、当事者や、周囲の第三者の意識や行動が、一時的にしろ永続的にしろ、変わってゆくしくみを知りたいと思う。そこに人のこころの成長の秘密があると思うからだ。この点を学問的に深く考えてゆくには、目の前にいる人とのやりとりだけでなく、記憶や知識の中の人、想像上の人などいろいろな他者を想定して、それぞれの影響力の及ぶ仕組みを科学的な手続で検証する必要がある。今のところはまだ、「目の前にいる人」の研究で手一杯なので、想像上の人(たとえば、あこがれの人や理想の人)の影響にまでたどり着くのはずっと先だろうが、その日をめざして、若い人たちと顔・表情認知や感情理解に関する研究を続けている。このごろ、ふとした拍子に、亡くなった両親とこころの中で対話している自分に気づくことがある。脳内で生じる自問自答、と言ってしまえばそれまでだが、自分の中にいる他者との対話、と考えると、そのプロセスはなかなか複雑だ。そうしたこころの性質まで、いつか心理学的に解明できればと夢想している。
心理学を研究しています、と自己紹介すると、こころのように目に見えないものをどうやって研究するのか、と質問されることが多い。実験データ、調査資料、言葉による記録といった形で示される「こころ」は、日常的な直感とは結びつきにくいが、研究のプロセス自体は、ほかの学問分野と変わるところはない。こころの研究の特殊性というか難しさがあるとすれば、おそらくその先だろう。こころの研究は、たとえ基礎研究であっても、日常生活の中での人の考えかたや行動と直接間接に結びつき、それに影響を及ぼしたときに初めて真の学問的貢献といえる。こころの研究者は、自分の研究の守備範囲をそうしたところまで含めて考えることが大切だと思っている。
研究者になろうという明確な意識がないまま、心理学の研究を続けてきたが、いつの間にか「心理学的なものの見方、考え方」が「私」の一部になっているような気がしている。とくに、現在の職場で専門領域の違う先生がたと話しをする機会が増えてから、そうした「見方の違い」を感じてとても新鮮な気持ちになる。その学問によってその人の人生観や価値観がいつの間にか作られる、研究者になるとは、そういうことなのかもしれない。